Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

「学問の自由」を考える

少し前(2005年)のことになるが、ハンス-ハーマン・ホップが大学当局から不当な攻撃を受けたという話(「思想警察との戦い」)。簡単にことの発端を整理しておこう。ホップは、自らの講義のなかで「時間選好(Time preference)」の概念を説明しようとした際、次のような例えを用いた。すなわち、同性愛者(homosexuals)は子どもを持たないので、高い時間選好率を持つ傾向にあり、より近視眼的であると。かれは、続けて高名な経済学者のJ・M・ケインズは同性愛者であり(これは有名な話だ)、このことはケインズの短期的な経済政策と「長期的に見れば我々はみな死んでいる」というかれの有名な言葉を考える際に役に立つだろうと付け加えたという。

こうした内容がとある学生から抗議を受けた結果、大学当局はホップにたいしそのような発言を止めるよう圧力をかけた。この事件は,「学問の自由」の侵害だとしてかなり問題になったが、結局大学側が処分を取り消す形で決着が着いた。それを受けての勝利宣言が上記リンク先の文章になるというわけだ。

ここでぼくが注目したのは、ホップの発言の「正しさ」ーじっさいケインズの経済政策とかれの同性愛志向が関係しているかどうかはよくわからないし、同性愛者の時間選好率が高いという話も疑わしいと思うーというよりも、むしろリバタリアンから見た「学問の自由」の問題だった。この点について、ウォルター・ブロックは著書『不道徳な経済学』のなかで1章を割いて解説を加えている。一般的に「学問の自由」は研究者が研究・講義をおこなう上で所属機関を含む外部の機関から干渉を受けない自由と解釈される。これは裏を返せば、仮にある研究者の研究や講義内容によって大学に何らかのダメージが出た場合でも、大学がその研究者の活動を規制したり解雇できないことを意味する。

不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社プラスアルファ文庫)

不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社プラスアルファ文庫)

ブロックは、このような形で雇用者の財産権を不当に制約することは、少なくともリバタリアンにとっては受け入れがたい論理ではないだろうかと挑発的に問いかける。ただし、かれは文の最後で、実際のところ公立・私立を問わず既存の高等教育機関は全ての政府の管理下にあるため、政府(という名の強制機関)への対抗上「学問の自由」を持ち出すことに意味があるかもしれないと述べている。

さて、どうだろう。ぼくは基本的にブロックの議論は正しいと思う。「学問の自由」なるものが空疎な概念であることは間違いないが、大学が政府の監督下にある以上、反政府的な、つまりリバタリアン的な研究・言論活動を行うためにそういったスローガンを戦略的に用いることは必ずしも否定できないだろう。そのいっぽうで、少なくともリバタリアンであるならば、より公的関与の少ない大学、すなわち国公立大学ではなく私立大学に属することを選好することも重要であると考える。今回のケースの相手方であり、ホップが長年所属していたネバダ大学ラスベガス校は明白な州立大学だ。かれがこのことについて弁明らしきものを行ったとは聞かないが、ある種の恥ずかしはやはり感じるべきではないだろうか。

誰がより無責任なのか?

少し前(2005年)になるが、Econlogのブライアン・カプランの記事「誰がより無責任なのか?」が興味深かったので紹介しておきたい。ここでカプランは、"福祉改革"(welfare reform)が唱えられる背景のひとつである10代のシングル・マザーについて、大部分は自らの行動が招いた帰結であり、例えば生まれつき目の見えない人よりも、援助を受けるに値しない存在だろうと述べている。かれは、実際育てられる見通しもないのに子どもを生むのは無責任であり、無責任な人々に援助を受ける資格がないのは当然だとする。

そのうえでカプランは、現在の社会保障改革の障害となっている退職者向けの給付に関連して、客観的に言えば、退職後の生活のために十分な蓄えをしていなかった人々は、10代のシングル・マザーよりもはるかに無責任であると断言する。なぜか。10代のシングル・マザーは、言うなればいっときの性的衝動に身を委ねた結果であり、一度子どもを産んでしまえば、若いときの軽率さの対価として20年近くに渡る過酷な生活を強いられることになる。また、彼女たちを非難するような"責任ある"大人たちもおそらく単にラッキーだっただけだろう。

いっぽう、退職後の生活に備えるというのは、上記のような瞬間的な行動の話とは全く異なる。準備をしくじるには、何週間、何年にも渡って"間違った"決定をし続ける必要があるからだ。カプランは、仮に20代は無分別でそのような考えに至らなかったとしても、30代、40代と機会があったにもかかわらずかれらはそうしなかったと皮肉を込めて書いている。

カプランは、10代のシングル・マザーと十分に備えのない退職者の両者とも無責任であり、公的支援でなく家族と私的なチャリティーに頼るべきだと主張する。仮にこの考えが厳し過ぎると感じられるとしても、先述の通り高齢の退職者はいっそう無責任なのだから、高齢者への給付は、少なくとも福祉給付よりも、少額かつ厳格な資産調査に基づいた、そして不名誉なものとされなければならないと結論づけている。

ぼくもカプランの議論に賛同する。むかし「老人支配に抗して(2)―若者はやはりかわいそう」というエントリ書いたことがあるが、じっさい日本でも盛んに流布されている悲惨な老人像は、ほとんどが長い人生に渡る無責任かつ近視眼的な行動に終始した人間の末路に過ぎないものだ。こういった人々を公金を使って救済する道徳的意義は一体どこにあるのか。ぼくはほとんどないだろうと思う。

今回のカプランの記事は、現在日本でも盛り上がっている生活保護制度を始めとした社会保障・社会福祉のあり方に考えるうえで非常に示唆に富むものだと思い、紹介させてもらった。限られた財政資源のなかで真に援助すべきなのは誰なのか、参考になれば幸いだ。

新世代のオースリア学派経済学者: エドワード・ストリンガムへのインタビュー

前回に引き続き『オーストリアン・エコノミクス・ニューズレター』の記事より。「新世代(THE NEW GENERATION)」と題し、何名かの若手のオーストリア学派経済学者が取り上げられている。そのなかで巻頭に来ているのが、現在若手のホープと目されているファイエットビル州立大学教授のエドワード・ストリンガム(インタビュー時の所属はサンジョセ州立大学)。1975年生まれだから、まだ30代中盤の若さだ。ストリンガムについては、このブログの過去のエントリでも紹介したことがある。(「アナーキーと法」)。

今回のストリンガムへのインタビューでは、かれの経歴、とりわけ順調なアカデミック・キャリアに焦点があてられている。まずかれがオーストリア学派の経済学やリバタリアニズムに関心を抱いたのは、学部生時代(ホーリークロス大学)、そこで教職を執っていたウォルター・ブロックに薫陶を受けたためだという。2人にまつわる次のようなエピソードが微笑ましい。

当時教室で古典的自由主義、制限された政府の立場を示していたブロックにたいし、ある日ストリンガムが「なぜ警察や司法制度も同様に民営化の対象と考えないのか?」と尋ねた。辺りを見回し、ドアを閉めたブロックは「リバタリアンにも2つのタイプがいる。制限された政府を支持するものと無政府主義のリバタリアンだ。そして自分は後者、つまり無政府主義のリバタリアンなんだ」。この会話がストリンガムに主として無政府主義リバタリアンへの興味を引き立てることになった。 

その後かれは、オーストリア学派の中心的な研究拠点であるジョージ・メイソン大学の大学院へ進学する。ストリンガムは、大学院での教育・研究について面白いコメントをしている。若手の研究者は院生時代、オーストリア学派の勉強をするのは避け、できるだけ主流派経済学に取り組むべきだという人たちがいるが、自分(ストリンガム)の意見として、これほどバカげた考えはないというものだ。 

この方法(かれは「ステルス戦術」と呼ぶ)は、一見就職や昇進のために有利に見えるかもしれないが、実際そんなサクセス・ストーリは存在しない。トップクラスの主流派経済学者は自らの人生のほぼ全てを研究に捧げている。そんな中で主流派経済学とオーストリア学派の両立を達成しようと思ってもできるものではないし、そもそも仮に主流派経済学者として成功するために投じた10年間を投じたとするならば、かれはそうすることによってオーストリア学派の研究に投じることができた10年間を失ってしまったことになる。ストリンガムは、オーストリア学派の研究者は、MITの経済学者などと競争しようなどど思わずに、最良のオースリア学派の経済学者を目指すべきだとしている。 

かれは上記の信念に従って研究者としての就職市場でも堂々とリバタリアン、オースリア学派の経済学者であることを明示し、にもかかわらず(それ故に?)複数の大学からオファーをもらうことができた。ストリンガムは、この理由を、多くの大学は、院生が思っているほど数理的・計量的テクニックに習熟しているかを重視しておらず、それよりも研究や教育への熱意・情熱といったものを評価しているからだ推察している。たしかに研究者になるわけでもない多くの学生にとって、数理的手法に精通しているかどうかは正直どうでもよく、むしろ経済学の面白さを情熱的に伝えてくれる教師のほうが望ましいのは間違いない。これはぼくが学生時代にも大いに感じたことだ。 

最後にストリンガムは、オーストリア学派の将来像について、ほとんどの人が興味を持たないような不毛な論争に時間を割くのではなく、市場経済学に関する追加的な知識を与えるような創造的な研究に力を注ぐべきだと主張している。これもまったくもっとも議論だろう。かれの話は、これ以外にも経済学、オーストリア学派リバタリアニズムへの愛情に溢れたものとなっている。日本で自由主義を研究しようとしている若手研究者にも大いに参考になると思うので、ぜひ一読をオススメしたい。 

市場と生活の質: ランダル・ホルコムへのインタビュー

『オーストリアン・エコノミクス・ニューズレター』というミーゼス研究所が発行していたインタビュー誌に掲載されたフロリダ州立大学経済学教授ランダル・ホルコムのインタビュー記事(「市場と生活の質:ランダル・ホルコムへのインタビュー」)。1998年と少し古いが、かれの考えの全体像を知ることができ、非常に興味深い。この日本ではまだ余り取り上げられることが少ないリバタリアン経済学者については、過去に何度か言及してきた。合わせて参照してほしい。

今回のインタビューでは、まずかれの専門の1つである都市計画の話から、政府による中央計画よりも自由市場における相互作用がいかに人々の「生活の質(Quality of Life)」を高めているかが説き明かされる。ぼくが長い間関心を持ち続けているCIDにおける「制限約款(restrictive covenants)」にも触れられている(「書評:集合住宅デモラクシー」)。 

続いて、「公共財理論(public goods theory)」という、この極めていかがわしい主流派経済学の考えに焦点が当てられる。ホルコムは、「公共財」の定義にピッタリあてはまる例としてコンピュータ・ソフトウェアをあげ、にもかかわらず市場がソフトウェアがうまく供給していることを皮肉を込めて指摘している。また公共財の代表例として語られることが多い「国防」。しかし、ホルコムによれば防衛の対象となる人の数が増えるほど、国防支出額は明らかに増加する傾向にある。これは公共財理論の考えと矛盾しているにもかかわらずだ。かれは、このような欠陥だらけの考えが生き残っていることがほうが驚きだと断言している。 

また民主制(democracy)と自由の問題についても議論されている。ホルコムは、アメリカ合衆国が建国されたとき、アメリカ政府の根本的な理念は「自由」だったにもかかわらず、今日多くの人々がそれを民主制と考えるようになったことに警鐘を鳴らしている。「デモクラシーの隆盛と自由の衰退には関係がある。デモクラシーは、今日われわれが理解している通り、自由と対極にあるものである」。関心を持たれた方はぜひ原文を読んでみてほしい。

書評:集合住宅デモクラシー

2006年2月の文章。前年に出版された竹井隆人『集合住宅デモラクシー』を取り上げている。例によって若干手を入れさせてもらった。竹井さんの新刊もそろそろ読んでみたいものだ。

いくつかのサイトで「昨年のベスト本」のような企画をやっているのを見かけた。ぼくは普段は新刊本をあまり買わない人間だが、自分のオススメの本がまったく取り上げられていないので、あえて書いてみる。それは竹井隆人氏の『集合住宅デモクラシー』だ。竹井氏についてはこのブログで何度か言及したので、詳しい紹介はさける。

この本はかれの現時点までの研究をまとめた集大成となっている。もっとも、母校である学習院大学で行った講義がもとになっているので、比較的読みやすい。CIDの私的政府に始まり、ゲーテッド・コミュニティに代表されるセキュリティの問題、そしてリバタリアニズムコミュニタリアニズムといった政治哲学上の話題までが集合住宅を機軸として多面的に論じられていて、非常におもしろい。自分自身、竹井氏の研究からは強く影響されている。

個人的に興味深かった点をいくつか上げてみたい。第1に、『プライベートピア』の著者、エヴァン・マッケンジーへの異論だ。マッケンジーはCIDにおける私的政府を非自由主義的かつ反民主主義的だとして非難する。しかし、竹井氏は私的政府の制限約款を用いた居住者に対する数々の「制限」は、むしろ集団の利益を維持するために不可欠の存在だと考え、肯定的に評価している。そもそもCIDの居住者はそうした制限をわかって移住してくるのであり、それを抑圧だととらえるのは完全な誤りだという。日本では「民主主義」を論じると往々にしウェットな書き方になりがちなので、竹井氏のクールな記述は好感が持てた。

第2に、マッケンジーや日本のゲーテッド・コミュニティを批判する論者が専ら米国型のPUD(Planned Unit Development:郊外型の戸建住宅団地)にだけ焦点を絞っているのにたいし、竹井氏が日本でも分譲マンションには管理組合という「私的政府」が備わっており、現在の分譲マンションのセキュリティはゲーテッド・コミュニティに匹敵するものだと主張している点。たしかに近年の分譲マンションの「要塞化」には目を見張るものがある。

第3として、あとがきで、ゲーテッド・コミュニティのような「要塞都市」は現代の特殊アメリカ的なものではなく、昔から世界中で見られる普遍的事象だと指摘している点。極論すれば日本にだけ、ゲーテッド・コミュニティが存在しておらず,竹井氏はこの理由を日本が四海を大海に囲まれた国家単位のゲーテッド・コミュニティだったからではないかと推測している。ただ、日本には「要塞都市」がなかったという話はいささか疑問が残る。中世日本には奈良県今井町のような明らかな「環濠城塞都市」があったためだ(市場は正義!「今井町:ゲーテッドコミュニティあるいは無政府資本主義の歴史的事例」)。 

最後に政治哲学的な観点からいくつかコメントをしてみたい。例えば竹井氏のデモクラシーの定義だ。かれは集団における望ましい民主政治を以下のように定義する。 

本来、社会の構成員の総意によって権力を付与された政府は各個人の権利を保護すると同時に「制限」を課し、その「制限」によって個人としてはなしえない利益確保を成就させる役割を担う。そして、各個人の権利に対する「制限」に正統性を与えるのは構成員の同意なのである。 

竹井氏は、集合住宅の統治にたいする住民参加にこのようなデモクラシーの可能性を感じ、それを国政レベルまで広げていくことが重要だとする。だが、集合住宅の統治は果たして「デモクラシー」なのだろうか。デモクラシー、民主主義の定義もいろいろあるだろうが、制度の根幹にあるのはやはり「1人1票」の原則だろう。つまり、金持ちだろうが貧乏人だろうがその組織を構成するメンバーは平等の権利を持っているわけだ。

いっぽう集合住宅、とくに竹井氏が期待する分譲マンションの管理組合の運営は上記の定義とはかなり違う。区分所有法では、規約の改定や集会での意思決定の際に、区分所有者数とともに議決権も重視されるからだ。議決権は、1人1票ではなく、原則として専有部分の床面積に応じて決められる。言うなれば、たくさん金を払った人間により多くの権利が与えられることになる。これはデモクラシーの平等原則に相反するのではないだろうか。

また、竹井氏はゲーテッド・コミュニティを「成功者の離脱」だとして批判するロバート・ライシュの議論にたいし、ゲーテッド・コミュニティの住人も(再分配の主要な要素である)連邦税を払っているという反論を行っている。この反論は以前ぼくが竹井氏の講演会の出席したときも聞くことができた。しかし、この論理はいささか甘いように感じられる。むしろ、再分配を積極的に拒絶するのが正当だったように思う。このあたりがコミュニタリアンを自任する竹井氏とぼくの最も大きな違いと言えるのかもしれない。

マルコムXを称賛する

スパイク・リー監督作品の『マルコムX』は、ぼくの好きな映画の1つだ。マルコムXは、1960年代ブラック・ムスリムの組織であるネイション・オブ・イスラムのスポークスンとして活躍した(その後脱退)黒人解放運動の指導者の1人。かれが有名なのは何よりもその過激な主張による。当時のアメリカの黒人解放運動では、公民権運動で有名なキング牧師のように、白人と黒人がお互い融和していこうと動きが主流となっていた。しかし、マルコムXはこうした主流派の姿勢を偽善だとして退けた。白人は黒人を長きにわたって虐待してきた「悪魔」であり、かれらとの和解はありえない。黒人は黒人だけで理想の国をつくるべき、つまり人種分離こそが人種差別廃絶の道であるというのがかれの議論だった。ただし、ネイション・オブ・イスラムを脱退し、メッカを巡礼した以降はその主張に変化が見られたようだ。

このような「過激な」黒人解放運動は後に「ブラック・パワー」と呼ばれるようになる。ぼくがマルコムXおよびブラック・パワー興味を抱いたのは、当時のアメリカでこのブラック・パワーをめぐる評価がリバタリアニズムと保守主義の間の大きな相違点となっていたからだ(『ラディカル・リバタリアニズム』)。保守主義者が人種分離主義を恐れ、ブラック・パワーを批判したのにたいし,リバタリアンはブラック・パワーに賛同を示した。 人種分離と聞くと、白人のきわめて差別的な考えではないのかと思われるかもしれない。だが、それは誤っている。むしろ人種分離を強く要求したのは黒人たちのほうだったからだ。

キング牧師たちが唱えた人種融和的な主張は、結局白人たちの社会や文化に黒人がしたがうことに他ならなかった。公民権運動で争点のひとつとなった人種統合のための強制バス通学にしても同じことだ。黒人が必要としていたのは、子供たちに自分たちの手で自分たちの文化を伝えることだった。すなわち、ブラック・パワーとは、白人に奪われた誇りと尊厳を黒人たちが取り戻す動きだったと言えるだろう。 もちろん自発的な人種分離を南アフリカでおこなわれていたような「アパルトヘイト」と区別する必要はある。マルコムXは最後暗殺されてしまうが、かれの思想はストークリー・カーマイケルら次世代の活動家に受け継がれ、ブラック・パワーはアメリカ社会で大きな注目を集めることとなった。70年代後半になると過激な黒人解放運動は下火になっていくが、こうした主張や運動があったことは知っておくべきだろう。

法によらない秩序

おなじみ過去に書いた文章の再掲シリーズ。2006年1月。 

ブライアン・カプランによるロバート・エリクソン『法によらない秩序』の紹介。非常におもしろそうだ。多くのリバタリアンが立法行為によらない法のあり方を研究しているが、エリクソンは秩序にとっては法でさえ不必要だと主張する。法の主要な機能である紛争解決、ルール形成、執行はインフォーマルな規範によって代替可能だし、現にそうなっているためだ。 

興味深いのは,取引費用が高い場合でも法が利用されることはほとんどないという指摘だろう。一般的な法と経済学の教えでは、取引費用が低い場合は当事者の交渉に任せるべきだが、高い場合は、政府が適切な法を選択することによって解決すべきだとされる。しかし,エリクソンによれば、法の学習や適用自体に費用がかるので、そしてそれは取引費用が高いということだが、結局人々は政府の仲裁ではなく相互の交渉を通じて紛争を解決している。

たしかに自分の日常生活を振り返っても法によって秩序が保たれているという実感はあまりない。エリクソン自身はリバタリアン(古典的自由主義者)ではないらしいが、本書はリバタリアニズムに大きな示唆を与えてくれるだろうとカプランは結んでいる。なお、2012年6月時点でも邦訳は依然ないようだ。