Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

ロスバードの反平等主義哲学

「平等」について語られるとき,通常「結果の平等」と「機会の平等」が対比させられることが多い。大半のケースで,1部の極端な社会主義者を除き,前者は望ましくないが、後者は望ましいとされる。しかしこれは真実だろうか。「機会の平等」という考えに本当に問題はないのだろうか。この点にかんし,ぼくが読んだなかで最も説得的かつ賛同したのはマレー・ロスバードの見解だ。これは越後和典『新オーストリア学派の思想と理論』で知った。以下少し長くなるが該当部を引用してみたい。なお,この部分は越後氏がロスバードの『権力と市場』の1部を要約したものだ。

 この問題を,最も鋭くつきつけているのは,筆者の知るかぎりロスバードである。彼は,人間が住んでいる場所が,人によってすべて異なっているかぎり,機会平等とは所詮実現不可能な概念である,という。たとえば,ニューヨークに住む人と,インドに住む人とが,マンハッタン島を周航する機会,あるいは,ガンジス川で水浴する機会を,われわれはどうして平等化しうるのか,と問う。 
 人生はゲームであり,ゲームがフェア(公正)であるためには,ゲーム参加者は同じ出発点から出発することが必要であり,これが機会の平等の意味である,と論じる者がいるが,ロスバードによれば,この議論は基本的に誤謬である。第一に,人生はレースやゲームなどではなく,それぞれの人ができるだけ幸福であろうとする試み(努力)である。第二に,人はその人生を,他人と同じ出発点からはじめることができない。世界はその人と同時に生まれたものではないからである。人間の住む世界は多様であり,その細部においては,無限の多様性・差異性がある。個人が,他の個人と異なる場所にまれたというその単なる事実が,必然的にその個人の生得の機会が他人のそれと同一でありえないことを証明するものである。このことを無視して,平等化政策を推進すれば,家族は崩壊するであろうが,かりにそのような代償を支払ったとしても,平等の実現は不可能である。 
 ロスバードは以上のように論じ,そもそも平等が価値ある自明の理想であるかのように考えられていること自体に問題がある,という。すなわち,すべての個人はユニークであること,人間は多種多様であり,個体化されており,その個体自体が価値を有すること,このことこそが人間の特徴である。このことによって人は,たとえば画一的な蟻の群れと異なるのである。画一的平等ほど人間の本性にもとるものはない,と論じる。
 ロスバードによれば,平等主義は無意味な社会哲学であり,その有意味な定式化を考えるとすれば,それは自由の平等という目標であるという。人は自由において平等であらねばならない,という命題がこれである。そしてこれはロールズのいう公正の第一原則にほぼ該当するものであるように見える。 
 しかし,ロスバードはこの命題も実は適切ではない,という。彼のいうには,平等という語は,固定の外延的単位をもった測定可能なものを含意している。たとえば,等しい長さは,これを客観的に計測して確認することが可能なはずである。しかし人間行為の研究では,そのような量的な単位は存在せず,量的に表現される平等はありえない。もし,人間はXにおいて平等であるべきだ,ということを主張するのであれば,単に人はXであるべきだ,あるいはXを侵害されてはならない,と表現すべきである。すべての人間は自由であらねばならない,自由を侵害されるべきではないという表現は正確であるが,自由において平等でなければならないという表現は,失当である,というのである。

新オーストリア学派の思想と理論 (MINERVA現代経済学叢書)

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