Shouting Fire in a Crowded Theater

日々のあれこれ

ラディカル・リバタリアニズム

ジェローム・トゥッチーレ『ラディカル・リバタリアニズム』。学生時代たまたま手に取ったが、なかなか興味深かった。出版は1970年。当時アメリカで勃興しつつあった「リバタリアン運動」を知るうえでは、今読んでも十分有益だ。参考までに以下冒頭部を少し訳してみる。ここで著者が「リバタリアニズム」と「保守主義」を明確に区別していることに注意してほしい。

資本主義を支持する陣営をリバタリアンと保守主義者,合理主義者と神秘主義者,無神論者(不可知論者)と信仰者,ラディカルな個人主義者とキリスト教の集産主義者に分断する,右派におけるこの分裂は,へスとロスバードにとって決して新しいものではない。近年の対立の種は1958年に出版されたアイン・ランドの長く,哲学的な小説『肩をすくめるアトラス』によってまかれた。この本は小説としては多くの欠点があるが,完全に理解され,大いに発展した哲学上の言明として非常に重要である。 『肩をすくめるアトラス』は,個人主義,自由放任の資本主義,エゴイズム,合理的な利己主義,理性,客観的な実在,そして絶対的な価値にたいする不屈かつ明白な擁護である。客観主義(ランド女史が彼女の哲学につけた名前)は,近代の右派が伝統的に神聖視してきたものを攻撃した。キリスト教とその倫理的な構成要素である利他主義,自己犠牲,信仰,原罪,超自然現象への信心,人間は合理的で創造的であるというよりもむしろ本質的に邪悪であるというカルヴァン派の見解などがその対象となった。
十分予想されたことだが,この本は,ウィリアム・バックレイの雑誌『ナショナル・レヴュー』の紙面上で酷評されることとなった。ランド女史は保守主義者の最大の弱点に反撃を行った。そこはかれらの基本的前提でもあった。アイン・ランドによれば,伝統主義的な保守主義者は,キリスト教倫理の言葉で資本主義を擁護する試みの中で,砂上の楼閣を作り上げてきた。彼女は,資本主義が根本的にエゴイスティックな概念で,結果的に利他主義よりも利己主義,信仰の代わりに理性,神の代わりに人間,超自然主義よりも客観的な実在をベースとした倫理を要求していることを指摘した。バックレイはすぐにランド女史を資本主義支持の同盟者というよりもむしろ敵として認識した。じっさい,彼女はバックレイと一般的な保守主義者に,彼らの矛盾―彼らの道徳的原理は彼らの政治的,経済的確信と両立不可能であること―を語った。
この哲学上の対立は,1950年代よりもさらに昔にさかのぼることができる。リバタリアニズムは基本的にアリストテレス的(理性,客観性,個人の充足)であり,いっぽう保守主義は基本的にプラトン的(特権的なエリート主義,神秘主義,集合的秩序)である。もっと最近で言えば,客観主義の基本的な構成要素は,19世紀のアナーキストたち,ベンジャミン・タッカー,ライサンダー・スプーナー,スティーヴン・アンドリュー,マックス・シュティルナーの文書に見出すことができる。それにたいして保守主義の伝統は,ベンサム,ロック,ヒューム,ルソーといった古典的自由主義者とエドモンド・バークのような王政主義者の混合物の遺産の上に成り立っている。

リバタリアニズムの考え自体は日本でも知られるようになってきたが、重要性はさておきアメリカにおけるその歴史的な背景等は触れられることは少ない。現代リバタリアン運動に関心を持たれたかたは、本書を読んでみると当時の雰囲気がわかるのではないだろうか。著者のトゥッチーレは,ドナルド・トランプやルパート・マードック、アラン・グリーンスパンの伝記等でも知られる作家。1960年代,ロスバードやカール・ヘスとともに現代リバタリアン運動にかかわっており、同様に運動の内幕を描いた『それはたいていアイン・ランドから始まる』という著作もある。『それはたいていアイン・ランドから始まる』は,25周年版であのD・フリードマンが序文を書いている。『ラディカル・リバタリアニズム』と異なり、こちらはかなりくだけた感じの文体だ。当初は親密な関係だったロスバードとアイン・ランドがなぜ袂を分かったのか。あるいはロスバードとニュー・レフトと共闘の話などある種のゴシップに関心がある人には(余りいないだろうが・・・)面白いのではないだろうか。

It Usually Begins with Ayn Rand (LFB) (English Edition)

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