Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

海外ニートの逆襲

今最も注目されているブログの1つは「ニートの海外就職日記」だろう。存在を見つけたのは偶然だったが、過去のエントリも含めて一気に読んでしまった。作者の海外ニートさんは、大学卒業後パチプロ、オーストラリアへの留学を経て現在シンガポールの外資系企業で働いている方だ。サービス残業等が慢性化する日本の労働環境がいかに「国際基準」から見て異常であるかを述べており、その論理的かつ説得力のある語り口と相まって、日本社会の閉塞感にうんざりしている若者を中心に大きな共感を集めている。その人気は各エントリにつけられたはてなブックマークの多さからも推察される。冗談抜きで社民党は今すぐかれをブレーンに招くべきだろう。湯浅誠なんぞよりはるかに適切な存在だと思われる。

ぼくも新卒で今の会社(日系金融機関)に入ってもうすぐ丸4年経つが、入社当初はこんな生活があと30年以上も続くのかと軽い絶望を感じたのを覚えている。ただ、「社会人」だから仕方がないのかと半ばあきらめかけていた。ところが、海外ニートさんのブログを読んで愕然としたわけだ。やっぱりこんな働き方を強いられるのは日本だけなんじゃねーか。ぼくの感覚は間違っていなかった。 ちなみにこの「社会人」なる日本独特の用語も海外ニートさんが強く批判するものだ。文字通りとるならば「日本社会」で生活している人間はすべて「社会人」だし、現在のもっぱら「社会人」=「サラリーマン(どんな理不尽時に耐える人)」を意味する使い方は、それ以外の生き方をあたかも排除するようなニュアンスを与えていて極めて息苦しい。

余談になるが、ぼくが敬愛しているアナルコ・キャピタリストであるanacapさんも海外ニートさんに注目されているようでうれしい限りだ。リバタリアン的には、以前も紹介したスティーヴン・ランズバーグの『ランチタイムの経済学』の第5章「労働と余暇のトレードオフ」は素晴らしい文章だと思う。ランズバーグはここで、人生において重要なことは「貯蓄と勤勉」ではなく、「消費と余暇」であることを明快に語っている。リバタリアズムに興味がない人でもぜひ読んで欲しい一節だと思っている。

閑話休題。そんな海外ニートさんだが、悲しいかなその議論の結論部=政策提言的な部分には賛成できないことが多い。かれは、多くの(悲惨の労働環境の)事例において労働基準法の厳格な適用や政府による取締まりを求めている。しかし、すでにいくつかの場所でも指摘されているように、そのような政府の介入は、(派遣労働の禁止でも予測されるように)労働コストの上昇を通じ、中小零細企業の労働者、派遣社員、失業者、学生といった「弱者」の就労機会を奪い、かれらをますます悲惨な境遇に追いやることになるだろう。このような「政府の失敗」は、規制や判例によって解雇される可能性がほとんどない大企業の正社員についてもあてはまることだ。かれらの多くは(労働者数の調整が困難なことに起因する恒常的な過少人員によって)1人あたりの業務量の増大に苦しんでおり、逃げ出そうにも外部労働市場が発達していない日本では転職の機会が限られているため、多くのケースで黙ってその奴隷的な境遇を受け入れるしかない状況に置かれている。

こうした状況を打破するには、逆説的に見えるが、労働者を保護していると思われている種種の労働法制の撤廃と解雇の原則自由化による労働市場の流動化が必要だ。「競争的労働市場」の実現のみが労働者を救うということは何度も強調しておかなくてはならない。同時に、城繁幸氏が以前から指摘しているようにホワイトカラーの給与体系をいわゆる「職能給」から「職務給」へ転換していく必要がある。先進国とは思えないような「過労死」にしても、個人的な経験に基づくならば、欧米のようにきちんとしたjob descriptionが存在せず、契約によって定められた「職務」の範囲が明確でないため、仕事に応じて際限なく働かなれけばならないこと起因しているように思われる。もっとも、これは労働市場の流動化が進めば必然的に実現することだ。

解雇の自由化を恐れる人もいるかもしれないが、解雇しやすい=雇いやすいということでもある。今のように新卒時の会社選択に1生をかけなければならない社会よりも、多少リスクはあるが、様々な企業、仕事で自分の可能性を試すことができる社会のほうがはるかに健全だろう。民主党政権には全く期待していないが、志のある政治家の皆さんの奮起を期待したい。