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日々のあれこれ

擁護できないものを擁護する

ウォルター・ブロックの『擁護できないものを擁護する(原題:DEFENDING THE UNDEFENDABLE)』。オーストリア学派の経済学者で著名なアナルコ・キャピタリストであるブロックの代表作だ。2006年に金融作家である橘玲氏の手によって『不道徳教育』なるタイトルで邦訳されている。橘氏の翻訳本についてはまたあとで触れる。

ぼくの手元にあるのは1991年に出版されたペーパ―パック版だ。内容は改めて説明するまでもないだろうが、ブロックは本書のなかで、売春婦、ドラッグの密売人、恐喝者、学問の自由を否定する者、ダフ屋、投機家、児童労働の雇用者といった一般的には有害であると思われ非難されるような行い及びそのような行為に携わっている人間を、実は公益に資するものであるとして積極的に擁護している。ここでの議論のもとになるのは、言うまでもなくリバタリアニズ、とくにブロックが依拠する自然権的立場の核心をなす「非侵害公理(The Non-Aggresion Axiom)」だ。非侵害公理の詳細についてはブロックによる解説「リバタリアニズムにおける非侵害公理」を参照して欲しい。

ぼくが本書の存在を知ったのは、学生時代にデイヴィッド・アスキューの「私生活自由放任主義――『擁護できないものを擁護する』を手がかりに」を読んだのがきっかけだ。アスキューの論文の要旨は(手元にないので不正確かもしれないが)、リバタリアニズムの本質は、市場経済が繁栄をもたらすというような「経済的自由主義」にあるのではなく、人々の多様な生のあり方を容認する「私生活自由放任主義」にあるとするものだ。この点に関して興味をもたれた人は、有賀誠他『ポスト・リベラリズム』所収「倫理的リバタリアニズム」、森村進編著『リバタリアニズム読本』所収の『擁護できないもの擁護する』の紹介文等も読んでみてほしい。

『擁護できないものを擁護する』の内容に戻るならば、ぼく自身はブロックの議論にほとんど賛成だ。ここでほとんどと書いたのは、アスキューも述べているように、いわゆる「外部性」の問題が気になったからだ。つまり、ブロックの説明の仕方は、かれら(擁護できないもの)は誰の権利も侵害していない→かれらとの取引は自発的なものであり、全ての当事者が利益を得ている→自発的な取引は社会全体の利益につながり、そのような取引の禁止は社会に悪影響を与える、という風になっているわけだが、例えばドラッグ使用のように当事者は満足していても第三者に様々な不安を抱かせるケースはどうか。

もちろんブロックはドラッグ禁止政策が(末端価格の上昇等を通じて)かえって社会に悪影響を与えている点を指摘しており、これはぼくも同意する。しかしこのような経済学的な分析と本書の議論の前提が必ずしもリンクしていないように思われる。要は当事者の自発的な取引だからすなわち社会全体の利益につながる、と言い切るのはいささか難しいのはではないかということだ。こうした点を補強する意味で、ミルトン・フリードマンのような帰結主義的な議論は非常に有効だろう(ドラッグ・ウォーにたいするフリードマンへのインタビュー)。とはいえ本書を読む価値を減じさせるものではないで、ぜひ多くの人に『擁護できないものを擁護する』を読んでいただきたいと思っている。

最後に橘氏の翻訳版について触れておこう。ぼく自身橘氏のファンで、その金融関係の著作は良く読んでいる。また、リバタリアンであることを明示的に述べている数少ない論者なのでその点も気に入っている。ただ、かれのリバタリア二ズム理解は若干違和感を覚えるときがある。以前はトンデモ評論家として名高い副島隆彦を好意的に取り上げるという失態をおかしていた。このあたり『宝島』つながりということかもしれないが。ちなみに副島をアイン・ランドの紹介者とするのは間違いだろう。足立幸雄「人権と福祉国家──ランドの道徳・政治理論」(『転換期の福祉国家と政治学』1989年 所収)のほうが早いはずだ。

この翻訳版の問題点はすでにLibetarianism@Japanで取り上げられているが、たしかに思想の分類で用いられている「原理主義者」という言葉は首をひねらざるを得ない。権利主義者もしくは自然権論者とするほうが一般的だろう。あとは全体的な問題として指摘されているように「超訳」が成功しているとは思えない。変に気を利かせないで素直に訳してくれたほうがよかったと思う。特にタイトルの改変は大失敗だ。誰かが再訳してくれることを祈りたい。

Defending the Undefendable

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