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日々のあれこれ

城壁住宅街と治安

アスキュー・デイヴィッド「城壁住宅街と治安―リバタリアニズムと治安の保障」。リバタリアニズムの研究者として著名なアスキューだが、近年は南京事件や日豪関係に関する論考が多く、本稿は久しぶりのリバタリアニズムの論文となる。タイトルからも推察されるように治安の民営化の実現可能性を理論的・実証的な観点から、とりわけ近年アメリカを中心に隆盛を極める「城壁住宅街(Gated Community)に注目することにより、論じようというものだ。アスキューはすでに同様のテーマでいくつか論文を書いており(「治安・司法の市場化――無政府資本主義について」及び「『治安維持の市場化』の可能性」を参照されたい)、本稿は治安の民営化に関するかれのこれまでの研究のまとめ的な位置づけにあたる。

このブログを読んでいただければわかると思うが、ぼく自身アスキューの従前の論文を読んで、リバタリアニズムゲーテッド・コミュニティ(個人的には「城壁住宅街」という訳語よりこちらのほうがしっくりくる)の関係に興味を抱き、日本の代表的なゲーテッド・コミュニティの研究者である竹井隆人氏の著作を通じて理解を深めてきただけに、今回の論文のテーマはまさに自分の今までの関心にぴったりあてはまるものだ。立命館大学の『社会システム研究』という比較的マイナーな(失礼)雑誌に載っているだけではいかにも惜しいと思い、このブログで内容を紹介させてもらうことにした。

本稿は序論、結語除き全七節からなる。まず序論で昨今の市場の復権と国家の衰退という世界的な傾向が概観され、そのような流れに理論的な基礎を提供するリバタリアニズムの意義が語られる。第一節では、公共部門による治安維持活動を補完・代替する存在である民間部門の役割が論じられる。ここでいう民間部門は大きく「市場」と「インフォーマル・セクター」に分けることができる。両者の違いは以下のように示される。

市場は私的利益の追求を基本原則とする個人や企業を示し、インフォーマル・セクターは博愛主義などを基本原則とするボランティア団体や非営利団体を示し、公益を基本原則とする公共部門における政府に代わって犯罪への対応の担い手として今日注目される。
具体的な内容をいえば、市場は民間警備保障会社の活動など市場原理を拠り所としつつ、個人の自助的活動として、我が家にピッキング防止錠や防犯灯(防犯灯ないしセンサーライトとは、家に人が近づくと自動的に点灯し、家の周囲などを明るく照らし出すものである)などの設置が考えられる。
また、インフォーマル・セクターでは、博愛主義にのっとり、地域の安全を確保すべく組成されるガーディアン・エンジェルスなどの防犯パトロール隊を含む様々な地域防犯活動が挙げられる。公共部門による活動として、まず何といっても刑事司法制度を中心に考える必要があろう。

アスキューはインフォーマル・セクターによる治安維持の効果を高く評価し、こうしたインフォーマルなメカニズムが機能しない場合においては、市場メカニズムによる解決が効果的だとする。そして日本を含め世界各国で「安全産業」が急激に成長している事実が報告され、国家の分割民営化が進展していることが明らかにされる。国家の分割民営化とは、「国家機能を一つまた一つを民間部門に委ねることにより、国家の縮小(あるいは廃止)を目指す運動」のことだ。

続いて第二節では、通常は「公共財」に分類される治安維持活動は、必ずしも政府による供給が必要なわけではなく、市場とインフォーマル・セクターでも代替・補完可能であることが述べられる。第三節では、公共部門の限界(「政府の失敗」)が、主として「公共選択理論」の視点から説明される。第四節では、公共選択理論を用いることにより、防犯における公共部門の限界と民間部門の優位性が明らかにされる。この部分は少し詳細に解説しておこう。

公共部門の治安維持活動の中心である警察の欠陥として、排他的管轄権が認められているため競争が欠如しており、サービスの質の改善や費用の低下へのインセンティグが存在しないこと。警察サービスの費用負担と便益享受との乖離が存在するため、広範なフリーライダーの発生が見られ、公共支出や資源配分が歪められていること。個々のサービス利用者(一般市民・納税者)が警察のパフォーマンスを「監視」出来ないことに起因するモラル・ハザードの発生が見られること等があげられている。対する民間部門の優位性として、例えば民間警備員においては、明確な雇用主が存在しているため顧客ニーズに敏感に対応すること。依頼人に対して丁重で礼儀正しく振舞うこと。犯罪発生後の犯罪者の検挙ではなく、事前の犯罪の防止に力を注ぐこと等の利点があげられる。

第五節では民間部門による公共財供給の実行可能性が論じられる。ここでアスキューが用いるのが「領土的公共財」(territorial public goods)という観念と「結びつける(tie-in)」という方法だ。

ある財・サーヴィスの消費・利用が、主として一定の地域に限られており、この領土への出入りが管理可能であるとき、この財は領土的財となる。地域への出入りが統制できるからこそ、この財は排除可能性を帯びるようになり、市場による供給が可能となる。
「市場の失敗」論は、しばしば、公共財(と定義される財)の消費から非排除性を仮定するところから出発している。ところが、領土的財に注目すれば、この「市場の失敗論」を論駁することは容易である。というのも、領土的財の供給者は、地域に出入りする者に「入場料」などを要求することができるので、公共財(と定義される財)は実は排除性を有しており、しかも民間企業はその供給から利益を得ることも可能だからである。(中略)
公共財は、他の何かしらの私的財と不可分の形で「結びつけられる」と、供給可能となるケースが多い。ショッピング・モールは、治安における好例であろう。政府がショッピング・モール内の治安維持というサーヴィスを供給するとき、ショッピング・モールの所有者こそ、真のフリーライダーとなるといえよう。ところが、治安維持の責務が所有者に委ねられるとき、所有者はおそらく民間警備保障会社と契約を締結し、防犯カメラなどの防犯機器を設置し、ガードマンの派遣を依頼するであろう。この場合、治安維持という「公共財」の供給に必要な資金を調達しているのは、直接的にはモールの経営者であるが、この資金はモールで買い物を楽しむ消費者が負担することになる。このように、治安維持という公共財は、モールで販売・供給される財やサーヴィスという私的財と結びつけられて供給されているのである。

第六節では、公共財としての治安維持活動が私的メカニズムを通じて供給されうることが説明される。私的な治安維持は、公的な治安維持に対して、次のような特徴を有する。

第一に依頼人指向型であり、第二に「観察活動」(surveillance)を通じて事前予防を重視しており、そして第三に「排除」を中心とする制裁を実施するメカニズムであるといえよう。「排除」という制裁では、被雇用者の不正行為が発覚した場合、本人を訴えたりしないで解雇するという形で「排除」すること、万引きを働いた人が捕まえられたときは訴えたりしないで店への立ち入りを禁止するという形で「排除」することなどが想定されている。

最終節の第七節は「『城壁住宅街』―生活空間の私有化は要塞化」と題されている。ここでは、「城壁住宅街」(Gated Community)が治安維持の市場化を提示する有力なモデルとして、その特徴や問題点が論じられる。本稿のタイトルからもうかがえるように、本節がこの論文の中心となっており、自分自身最もスリリングに読むことができた。まず城壁住宅街が急増していることと防犯におけるその有効性が明らかにされる。また、城壁住宅街は、治安維持活動以外にも、公園や公道、街灯、廃棄物収集といった一般的に「公共財」と目されてきた財・サーヴィスの提供に成功している。

歩道や道路も含めて、城壁住宅街の住民でなければ、これらの設備を使うことができず、城壁住宅街の居住者のみがこれらの「公共財」を消費することができる仕組みとなっている。リバタリアニズムの立場からすると、これらの「公共財」の財源は、強制的な税収ではなく、むしろ自発的に支払われる管理費から賄われることは、城壁住宅街に道徳哲学的な正当性を保障するのである。

ここで通常の政府=課税=強制と城壁住宅街=管理費=自発的という図式が対比させられ、「強制」を糾弾するリバタリアニズムの立場から後者の明白な優位性が述べられている。そして、このような城壁住宅街の特徴の一つとして注目されるのが、そのガバナンスだ。ここでは以前このブログでも紹介したことがあるCIDと呼ばれる共同住宅の形態が論じられる。

城壁住宅街では、私道などの財源は集合的に所有されており、住宅所有者が、自ら支払う料金を公共財の源泉とすることにより、そこで「私的政府」が誕生するといわれる。城壁を建設するか否かを決め、その運営に携わるのは、竹井隆人が「集合住宅デモクラシー」と呼ぶ私的政府であるが、私的政府の運営母体となるのは、コモンを共有する居住宅(CID、Commom Interest Development)や住宅所有者組合(HOA, Home Owner`s Association)などといった結社である。(中略)
城壁住宅街の出現はCIDなどの住宅街の自治体の出現を意味するのみならず、同時に様々な行政サーヴィスの民営化を意味する。空間の私有化・市場化とはそのまま公共財供給の市場化を意味することを考え合わせると、極めて意味深長な勢いであるといわざるをえない。(中略)
そして強調すべきは、それら(注:私的政府等)が地方政府が従来供給してきた公共財・サーヴィスを私的に供給している、という点である。従って、合衆国では、「国家の中に諸国家が存在すること」は現実となりつつある、といえよう。公共地などの共有財産は住宅街に生活する人や住宅の所有者により共同に所有されていると同時に、住民は自らが定めるルール体制にも支配されている。、これは、約款・約定・規定(CC&r, Covenatnts,Conditions,and Restrictions)から構成される住民の自主的で主体的なルール体制の誕生に他ならない。

最後に城壁住宅街の問題点がいくつかあげられる。第一に、城壁住宅街と民主主義社会との両立が困難であることされること。第二に、城壁住宅街がその防犯に成功するが故に副作用として周辺地域に犯罪を転移させる恐れがあること。第三に、城壁住宅街が新たな貧富の差を産み落とすのではないかということ。また、城壁住宅街の数が増えてきたことに伴い、内部で犯罪が発生する恐れも大きくなる。左記のような批判があるものの、アスキューは城壁住宅街による治安の供給メカ二ズムを高く評価し、リバタリアニズム(とりわけ無政府資本主義)の有効性を証明するものとして積極的に位置付ける。同時に公共部門の衰退が明白な現在、城壁住宅街を研究する意義を強調している。

以上アスキュー・デイヴィッドの「城壁住宅街と治安―リバタリアニズム理論と治安の保障」を紹介してきた。興味を持たれた方はぜひ直接論文を読んでみていただきたい。アスキューが繰り返し述べているように、治安維持だけでなく様々な公共財の私的供給の可能性を考えるうえで、城壁住宅街=ゲーテッド・コミュニティの存在は極めて重要だと思われる。このブログで何度かゲーテッド・コミュニティの話題を取り上げてきたのもぼく自身そのように考えているためだ。ゲーテッド・コミュニティに関しては、まだ偏見を持っている人も多いが、ぜひ利点の方にも目を向けて欲しいと思う。そして日本での普及が促進されることを願っている。