Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

「社会民主主義者」としてのハイエク

フリードリッヒ・ハイエクが20世紀を代表する偉大な社会哲学者であることは言うまでもないだろう。ハイエク自由主義の代表的な擁護者と見なされており、事実かれに対する批判の多くは「左」の論客によってなされてきた。しかし、数はそれほど多くないが、違った観点から、つまりハイエクの「自由主義」の不徹底さを問題にする議論も存在する。今回はそうした議論をいくつか紹介してみたい。

まずアスキュー・デイヴィッド「ハイエクの自由擁護論の限界―リバタリアンの言説を手がかりに」。当ブログですっかりおなじみとなったアスキューだが、これはぼくが学生時代初めて読んだかれの論文だ。一読してこのような視点があるのかと非常に驚いたのを覚えている。アスキューは、ロナルド・ハモウィーによる『自由の条件』の書評に言及し、ハイエクの「独占」と「徴兵制度」に対する見解から、かれの「強制」概念の問題点を指摘する。そして、実質的に徴税制度を容認するハイエクとそれを窃盗、強制労働と同一視するランドやノージックの姿勢を比較することによって、(福祉国家へ譲歩する)ハイエクの自由擁護論の限界を浮き彫りにしている。同様の議論は越後和典『新オーストリア学派の思想と理論』でも見ることができる。とくに「公共財理論について」と題された第五章では、政府による広範囲の「公共財」の供給を是認するハイエクとロスバードの後を継ぐ無政府資本主義であるハンス・ハーマン・ホップの議論が対比させられており、ここでもハイエクの「強制」概念が論理的首尾一貫性に欠けるとしてものとして扱われている。

ハイエクと同じくオーストリア学派に属する経済学者からの直接的な批判としては以前も紹介したウォルター・ブロックの「ハイエクの『隷属への道』」がある。社会主義の危険性をいち早く指摘し、ハイエクのある種の「代表作」であると目される『隷属への道』だが、その評判と裏腹な政府介入の容認と漸進主義的な考え方が無政府資本主義の立場に立つブロックによってかなり厳しく非難されている。なお、この論文に対してはハイエクを擁護するミルトン・フリードマンとブロックのやり取りが公表されている。興味のあるかたは読んでみてほしい。

最後に越後氏の本でも登場したホップを再び取り上げたい。かれはおそらく現代リバタリアニズムの「最右翼」に位置する論客だろう。ホップのハイエク批判としては「政府と社会進化におけるハイエク:批判]」がまとまっているが、読みやすさの点でこのインタビューが面白い。ここでホップはハイエクのことを「社会民主主義者に等しい」とまで断じている。特に興味深いのが社会主義経済計算論争に触れている箇所だ。周知のようにハイエクは社会主義の最大の問題を知識の問題としてとらえていた。つまり、社会に広く分散されている特定の状況下での知識は(経済活動において)非常に重要なものだが、これを中央計画当局がうまく処理することは不可能というわけだ。しかし、ホップはこのハイエクの議論の問題点を指摘する。それは企業の存在となぜ企業のオーナーは社会主義の中央計画当局と同じ問題に直面せずにいられるかを説明できないことだ。むしろホップはミーゼスにならい、社会主義の問題を私的所有権の不在に求めている。ぼくはホップの批判にかなりの説得力を感じたが、この辺り「ハイエキアン」の反論を聞いてみたいものだ。

以上、ラディカルな自由主義者、すなわちリバタリアンによるハイエク批判を見てきた。もちろんハイエクの功績の全てが否定されるわけではないが、少なくとも「社会民主主義者」と見なされるような側面がかれの思想に含まれていることは注意しておくべきだろう。