Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

リバタリアンからみた労働組合

今日は暇だったので、久しぶりにミルトン・フリードマンの『選択の自由を』を読み返してみた。読むたびに新しい発見があるが、今回取り上げたいのは「労働組合」について。フリードマンは、一般的に労働者を「保護する」ものと考えられている労働組合が、歴史的に見ても労働者の生活水準の向上にほとんど全く役に立っていない事実を明快に指摘する。それどころか、組合の存在は大多数の労働者にとって害悪でさえある。なぜなら、

ほんとうのところは、強い労働組合がその組合員に対して核とする賃上げは、主として他の労働者の犠牲においてである

からだ。つまり、ある労働組合が高い賃金を達成すると、(需給の法則から)その職に対する需要は減少することになる。そして、職を得ることができなかった労働者が他の分野で求職するため、(労働供給の増加により)そうした仕事の賃金が引き下げられる結果になるというわけだ。別の箇所でフリードマンが述べているように、「組合は、もともと賃金が高い層で力が強いのがふつうなので」、結局のところかれらは低賃金労働者、未組織労働者といった「弱者」の負担のもとに利益を享受していることになる。また、トマス・ソーウェルも指摘するように、ギルドや組合によって組織的かつ人為的に賃金を決定することは、(生産性に応じた)労働力の移動を阻害することによって経済全体の資源の配分効率を悪化させる(『入門経済学』)。

以上リバタリアン労働組合批判を見てきたが、そのいっぽうでフリードマン労働組合の存在自体を否定しているわけではないことに留意する必要がある。それはクローズドショップ制のような一見、抑圧的、非自由主義的な形態に対してもそうだ。アメリカの一部の州に見られる労働権法(組合加入を雇用条件とすることを禁じる法律)を批判する文脈のなかでかれは次のように述べている(『資本主義と自由』)。

労働市場が競争的であれば、雇う側が雇われる側にどんな条件を提示してもかまわないはずだ。(中略)同じことが組会加入を雇用条件とするクローズドショップ制(注:使用者が雇用する労働者は労働組合員から雇用しなければならないとする制度)にも当てはまる。クローズドショップ制を取る会社がいいと思う労働者がいいと思う労働者もいれば、オープンショップ制(注:使用者が雇用する労働者に対し、特に労働組合員であることを雇用条件にするといったことを決めていないもの)をとる会社がいいと思う労働者もいるだろう。ならば、雇用契約は組合加入を条件にしてもいいし、しなくてもいいわけで、いろいろな形の雇用契約があっていい。

ここでフリードマンが述べていることは、非常に重要だ。自由な市場においては、適正な手続きに則っていれば(つまり労使双方の自発的な合意によるものであれば)労働組合を含む様々な労使間協定の存在自体は完全に正当化される。ぼくが思う真のリバタリアン的な労働組合観とはこれだ。(政府の強制によらない)当事者の自発的合意に基づくあらゆる秩序は容認されなければならない。たとえそれが経済的非効率を招くだろうものであってもだ。もっとも、フリードマンは競争的労働市場においてはクローズドショップ制の維持は難しいだろうことも述べているが。

では、現在の労働組合に何の問題もないかというとそうではない。本当の問題は、労働組合自体の是非ではなく、かれらに対し労働組合法その他様々な法律によって政府から与えられている「特権」の存在にある。それは日本の場合でいえば、使用者が団体交渉に応じる義務、「不当労働行為」の禁止、「正当な」ストライキ等争議行為の合法化等といったものだ。このような馬鹿げた特権を取り除くことが1番重要であり、こうした改革が実現すれば、労働組合の存在は経済全体にとって自ずから取るに足らないものになっていくだろう。

選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)

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