Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

なぜわたしはアナルコ・キャピタリストではないのか(2)

今回もLJPからの転載。蔵さんのブログエントリに(失礼を承知で)若干批判めいたことを述べさせていただいたが、基本的には蔵さんの主張に同意していることを改めて明記させていただきたきたい。蔵さんが参考文献としてあげられていたジェフ・ハメルの論稿のなかで頻繁に参照されているダグラス・ノース『文明史の経済学――財産権・国家・イデオロギー』を最近読んだが、制度変化におけるイデオロギーの役割というものはやはり無視することができないように思われる。ノース自身上記の本で展開している議論はある種のラフスケッチであることを書いている。これ以外に同様のテーマを扱った研究はあるのだろうか。その後の発展知りたいところだ。

前回のポスト(「なせわたしはアナルコ・キャピタリストではないのか(1)」)で予告したとおり、蔵研也さんのブログエントリについてコメントさせていただきたい。蔵さんは「typeAさんへ」と題されたブログのエントリにおいて「警察民営化」の移行プロセスに触れたあと、自由の重視する価値観の重要性について述べられている。

僕は、民主主義と同じような価値観として、「自由」をもっと日本人に賞賛してもらいたい。自由を重視しない社会では、税金は上がり、社会保障に釘付けされ、規制の非効率に喘ぎ、物質的にも精神的にも悲惨な状態になってしまう。自由を重視する価値観が高まれば高まるほど、規制は正当性を失い、自由貿易は促進され、各種の政府機関は廃止され、僕たちはより豊かに満ち足りて暮らせるはずです。

確か、Jeffrey-Rogers Hammel はこういった自由の価値観こそが「社会資本」なのであり、それを増やしていくことこそがリバタリアンの役目だということを書いています。僕も、まったくこれに同感します。今、日本にないのは、個人的な経済的・精神的な自由を脅かすような制度改革は、独裁政治と同じように望ましくないものなのだ、という価値観だと思います。

ぼくもこの蔵さんの意見に心の底から賛同するものだ。実際、20世紀は社会主義、ケインズ主義に代表されるように政府が経済を「管理する」必要があるという考えが支配的だった。しかし、今日同様の考えを抱いている人間は少数派だろう。良好な経済パフォーマンスには市場の活用が不可欠だという認識が一般的となり、民営化された国有企業(JT、JR等)を再び国有化しようという動きが現れることはない。したがって、われわれリバタリアン、そして本サイト「Libertarianism Japan Project」の主要な役割が自由の価値観を広めていくことだ、ということはいくら強調してもし過ぎることはない。ちなみに蔵さんが書いているHummelの議論とはこれだろう("The Will to Be Free : The Role of Ideology in National Defence")。ぼくもまだ目を通せてないが・・・

そのいっぽうで2点ほど疑問を述べさせていただきたい。1つは君主制あるいは独裁制から民主制への移行が可能だったのだから、同様に人々の価値観が変われば無政府への移行も可能となるのではないか、という点だ。蔵さんは次のように述べている。

よって、いつの日か、最小国家が実現した場合には、その構成員は現在よりもはるかに「自由」という価値観に帰依しているはずで、その時には無政府も実現する可能性が高いでしょう。逆に言えば、現状の日本人の価値観を前提として、警察の民営化や無政府の可能性を論じれば、それは単なる不可能であるだろうと思います。

じつはこの点は、以前蔵さんとお会いした際も強調されていたことなので、以来ぼくも考えてはいた。しかし、やはりこれは嘘くさいと思う。君主制から民主制への移行というものは、結局のところ政府の形態(政体)の変化に過ぎず、誤解を恐れずに言えば、単に(政府という)略奪者が世襲のゴロツキからたくさんの大衆の支持を得るようなゴロツキに変わっただけとも考えられるからだ。逆にここから長い歴史の経験上やっぱり無政府は難しいという教訓を導きだすことも可能だろう。

もう1つが前記とも重複することだが、価値観(あるいはHummel風に言えばwill(意志))の働きを過大視しているのではないかという点だ。「われわれが無政府資本主義に達する(維持する)ことができないのは自由の価値観が足りないからだ」という議論はそのまま次のような議論に転用できないだろうか。すなわち「われわれが社会主義に達する(維持する)ことができないのは平等の価値観が足りないからだ」。そうした価値観が十分にあれば、経済パフォーマンスの低下や物資の不足に悩まされることはない。だが、この主張は馬鹿げているよう思われる。結局社会主義が成功(持続)しなかったのは、その社会システムが個々のインセンティブと両立しなかったからだろう。

そして無政府資本主義が安定的ではない≒政府の存在は避けられないというのも、価値観の問題というよりも社会主義の失敗と同様人間の一般的な特性から導き出されるものではないかと考える。もちろんそうじゃないという主張もあるだろう。おそらく数百年のスパンで考えれば、またはテクノロジーの劇的な発展によって、無政府資本主義は可能となるかもしれない。ただ、個人的には遠い将来の無政府の可能性に拘るよりも、今の現実をよりリバタリアンなものに変えていくことに力を注ぎたいと思っている。

なお、今回の議論も例によってRandall Holcombeの次の意見を参考にさせてもらった。"Is Government Inevitable? Reply to Leeson and Stringham"及び"IS GOVERNMENT REALLY INEVITABLE?"