Shouting Fire in a Crowded Theater

日々のあれこれ

リバタリアニズムの古典 『アナーキー・国家・ユートピア』

今回も初出はLJP。「LJP秋の読書フェア」の一環として書いた。自分自身、以前はわりと無政府資本主義に好意的だったので、(最小)国家を擁護するノージックの立場はどことなく違和感があった。リバタリアニズムが言及される際、ノージックばかり取り上げられることにたいする反発もあったと思う。それが、紹介のため久しぶりに読み返してみると、意外と読める、というかむしろその「自生的国家」論には大きな説得力を覚えた。以下の文章からその思いをくみ取っていただけるだろうか。なお、文章中で述べられているノージックとロスバード主義者との論争については、過去のエントリ(「無政府資本主義 対 制限された国家」)を参照してほしい。

「LJP秋の読書フェア」の一環として今回紹介させてもらうのは、ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』だ。マイケル・サンデルが例の講義のなかでも言及しているように、本書は現在でもリバタリアニズムを代表する著作と目されている。政治思想、法哲学、倫理学等のテキストを開けば必ずと言っていいほど紹介(多くの場合批判的な解説もあわせて)されているので、聞いたことがあるかたは多いだろう。大部の著作であり、決して読みやすいとは言えないかもしれないが、ジョン・ロールズ『正義論』とならぶ現代政治哲学の「古典」として、リバタリアニズムに関心を持つ全ての人におすすめできる1冊だ。

本書の構成は大きく3部からなっている。まず第1部「自然状態の理論、または如何にして、実際に試みないで国家へ戻るか」では、無政府状態(アナーキー)と比較して「その市民すべてを暴力・窃盗・詐欺から保護する役割と、契約を執行することなどに限定」された国家、いわゆる「最小国家」の存在が正当化される。第2部「最小国家を超えて?」では、最小国家の役割を超えたどのような国家も人々の権利を侵害するため正当化できないことが論じられる。最後に第3部「ユートピア」では、最小国家は退屈な概念ではなく、多様なコミュニティの実践を可能とするような枠、すなわちメタ・ユートピアとして理解できることが主張される。

ロールズ『正義論』に代表される福祉国家的リベラルにたいする批判という一般的な評価に加え、リバタリアン的には、後述するライコが述べているように、本書が国家という問題に挑戦した(無政府主義的な)ロスバード主義者への応答だったことを認識しておく必要があるだろう。ノージックは無政府状態を想定したうえで、人々の身体、財産、権利を保護・執行する保護協会が、規模の経済性その他の理由により、(地域における)支配的保護協会となり、そこから「超最小国家」、そして「最小国家」へと進化する1種の「自生的国家論」を展開している。かれは哲学者らしく、この「見えざる手」に導かれた国家生成のプロセスが誰の権利も侵害しておらず、よって(無政府資本主義者とは異なり)最小国家は正当であると主張する。

多少コメントさせてもらおう。ぼくは、無政府資本主義者と同様、国家を最終的に正当とみなせるかどうかは疑わしいと思う。ロスバードも指摘しているが(『自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系』)、実際の歴史を見ると、ほとんど全ての国家が、内部のものであれ、外部のものであれ、略奪集団によって(低コストでの収奪を可能とするために)打ち立てられているからだ。現実の国家発生のプロセスが(大規模な権利侵害を伴う)より過酷なものだっただろうことは想像に難くない。いっぽうで、アナーキーの安定性・持続性にたいしても懐疑的だ。したがって、ノージックの(保護協会から最小国家への)進化という発想自体は基本的に正しいと考える。つまり、望ましくないかもしれないが、やはり国家の発生は避けられない。結局、われわれは国家と共存せざるを得ないだろうと考える。

著者のノージックは、コロンビア大学、プリンストン大学大学院を経て、ハーバード大学で長く哲学の教授を務めた人物。ノージックとリバタリアニズムの関係については、長年にわたりかれと交流のあったラルフ・ライコが、2002年のノージックの死に際して書いた「ロバート・ノージック 歴史的記録」に詳しい。ノージックはプリンストンの大学院時代、ラルコの友人で、ロスバードの仲間が集まった「サークル・バスティア」のメンバーでもあったブルース・ゴールドバーグに影響され、それまでの社会民主主義的な見解に疑いを抱き、リバタリアンに「転向」したという。

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界