Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

無政府資本主義における共有財産について

今回も興味深い論文を紹介したい.通常,無政府資本主義では「"全ての"資産は私有財産である」と主張される.近年,この点を強く訴えている論者として,例えばハンス・ホップがあげられる.だが,ランダル・ホルコムは「無政府資本主義における共有財産(COMMON PROPERTY IN ANARCHO-CAPITALISM)」という論文でそうした議論に疑問を投げかけている.以前も紹介したように(「政府:不必要だが避けられないもの」),ホルコムはアナーキーの持続性に懐疑的な立場だが,今回の論文ではこの点はいったんカッコに入れられ,無政府資本主義の成立を前提として考察が行われている.

議論に入る前に用語の整理をしておこう.文中で使われる共有財産(common propery)とは,アクセスが万人に開かれているものをいう(オープンアクセス).いっぽう,私有財産(private property)とは,所有者によって資産へのアクセスがコントロール可能なものをいう.共有財産に似た言葉として,共同所有権(collective ownership)がある.これは,ある資産が特定のグループによって所有されている形態のことだ.わかりやすい例として,以前このブログでも言及したゲーテッド・コミュニティ内の道路等があげられる(「プライベートピア」及び「ゲーテッド・コミュニティ」を参照).コミュニティ内の道路は,コミュニティの住人から構成される住宅所有者組合(HOA)によって所有されている.この場合,住人と招待された人間は自由にその道路を通行できるが,それ以外の人間は基本的にexcludeされる.したがって共同所有権はあくまで私有財産の1種と考えておくべきだ.

本題に入る.リバタリアンフレームワークのなかで最もポピュラーな私的所有の擁護は,ジョン・ロック的な,無主物に自らの労働を混ぜることによって自分の所有財産となるというものだろう(いわゆる「労働所有論」).この議論は単純かつ非常に強力だと思われるが,いっぽうで疑問も生じさせる.例えば,昔から近隣を中心としてたくさんの人々の憩いの場として活用されてきた公園があるとしよう.1種の共有財産とみなして差し支え無い.この公園を誰か特定の人間や企業の私有財産とすることはそもそも可能なのだろうか.ちなみにここで可能なのかと問うているのは,技術的というよりもリバタリアンの権利論のなかで正統化できるのかという意味だ.

労働所有論の適用として,「以前その公園にベンチを寄贈したことがあるから,その公園は自分のものだ」と主張する人物が現れるかもしれない.しかし,こうした主張に説得力を感じる人間は皆無だろう.あるいは,現在の日本でこのような事例は現実的ではない,公園は政府の所有物となっているのではないかと指摘されるかもしれない.だが,公園の名目上の所有者が政府であっても、実際は政府が造成したものではなく、はるか大昔からたくさんの人々に利用されていたというのはありうる話だ.仮に,政府が造成した公園でも、その費用は全国の納税者が負担している。これを特定の誰かの所有物とすることはかれら(納税者)の公園を利用する権利を侵害することにならないか。

つまり,現状すでに1種の共有財産となっているものを私有財産に転換するのはそう簡単な問題ではないということだ.これは,上記のような公園の他に,海洋,河川,道路等のケースが考えられる.ホルコムは,一般的な理解とは異なり,無政府資本主義社会でも,全ての資産が私有財産となるわけでなく,誰もがアクセス可能な共有財産が残るだろうことを指摘している.ただ,その際共有財産がどのように管理されるのかは必ずしも明確なわけではない.ホルコムも,人々の自発的な活動や,慈善団体によるだろうと予測している程度だ.ちなみにホルコムは,別に私有化が悪いと主張しているわけではないので,注意してほしい.効率性その他面を考慮に入れても私有化したほうが望ましいケースが大半なのはいうまでもない.いわゆる「コモンズの悲劇」の問題もある.まあ「コモンズの悲劇」は,若干誇張されているという意見もあるようだが.

なお,ホルコムは,他にもいろいろおもしろい考察をしている.例えば,ジョン・ロックとマレー・ロスバードの対比.周知のように、ロックは資産の専有に際し1つの条件を付けている(いわゆる「ロックの但し書き」)。「他の人々にも、十分な量と同品質のものが共有物として残されている場合には」というのがそれだ.いっぽう,ロスバードは,ある本のなかで,海上交通路というものは,おそらく専有できないだろうと述べている。なぜなら、それは航路との関連で大量にあるからだ。しかし,このことは漁業権にはあてはまらない。なぜなら魚は、(ほぼ)無制限の人間の欲求に対応しきれないからだ。ここで両者の議論は逆の方向を向いていることがわかる。つまり、ロックは対象が豊富にあるとき(希少でないとき)、それを専有することができる。ロスバードは対象が希少であるとき、それを専有することができる、としているわけだ。ロスバードが基本的にロックの議論を継承しているだけに,この違いは興味深いと言える.

上記のような議論に関心を持たれたかたはぜひ直接論文にあたってみてほしい.