Shouting Fire in a Crowded Theater

日々のあれこれ

池田信夫さんとリバタリアニズム

前々回のエントリでブライアン・ドハティの『ラディカルズ・フォー・キャピタリズム』を取り上げた(「ラディカルズ・フォー・キャピタリズム」)。参考にしようと関連する記事を検索していたところ、人気ブロガーである池田信夫さんの過去の文章がヒットした(「古典的自由主義の復権」。2007年の記事だから本書の出版と同年だ。さすが、常日頃から「リバタリアン」を自任されている池田さんなだけあるなと、皮肉でなく感心した次第だ。

ただ、記事を読み進めていくといくつか首をひねる箇所があった。例えば蔵(研也)さんの『リバタリアン宣言』を貶めるいっぽうで、笠井潔の『国家民営化論』を称賛する態度がそうだ。笠井の本はユニークな発想等評価すべきところもあるが、基本的に本来のリバタリアニズム、アナルコ・キャピタリズムとは「別物」と考えるべきだろう(「アナルコ・キャピタリズム」参照)。とても「入門書」と呼べるようなシロモノではない。

さらに、コメント欄で次のような「決定的な」発言をしている。

しかしアナルコ・キャピタリズムの古典は、何といってもノージクの『アナーキー・国家・ユートピア』でしょう。ノージク自身はリバタリアンではなく、この本が代表作になったのは不本意だったようですが。

これを読んでぼくはまさに目が点になった。たしかにロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』はリバタリアニズムを代表する著作だ。しかし、アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)の本などでは断じてない。なぜなら、ノージックは(最小)国家を正当化しているからだ。アナルコ・キャピタリズムならば、むしろD・フリードマンの『自由のためのメカニズム』やマレー・ロスバード『新しい自由のために』、『自由の倫理学』を代表作にあげるのが普通だろう。「そんなこと知らなかったよ」というかたは、本ブログの以下のエントリを参照してほしい(「無政府資本主義 対 制限された政府」、「リバタリアニズムの古典 『アナーキー・国家・ユートピア』)。

まさかあの池田さんがこんな初歩的なミスを犯すはずはないだろうから、おそらく書き間違いだと思うが、とりあえず修正しておいたほうが良いですよ、と書いておきます。

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界