Shouting Fire in a Crowded Theater

30代・独身・リーマンの視点

書評:集合住宅デモクラシー

2006年2月の文章。前年に出版された竹井隆人『集合住宅デモラクシー』を取り上げている。例によって若干手を入れさせてもらった。竹井さんの新刊もそろそろ読んでみたいものだ。

いくつかのサイトで「昨年のベスト本」のような企画をやっているのを見かけた。ぼくは普段は新刊本をあまり買わない人間だが、自分のオススメの本がまったく取り上げられていないので、あえて書いてみる。それは竹井隆人氏の『集合住宅デモクラシー』だ。竹井氏についてはこのブログで何度か言及したので、詳しい紹介はさける。

この本はかれの現時点までの研究をまとめた集大成となっている。もっとも、母校である学習院大学で行った講義がもとになっているので、比較的読みやすい。CIDの私的政府に始まり、ゲーテッド・コミュニティに代表されるセキュリティの問題、そしてリバタリアニズムコミュニタリアニズムといった政治哲学上の話題までが集合住宅を機軸として多面的に論じられていて、非常におもしろい。自分自身、竹井氏の研究からは強く影響されている。

個人的に興味深かった点をいくつか上げてみたい。第1に、『プライベートピア』の著者、エヴァン・マッケンジーへの異論だ。マッケンジーはCIDにおける私的政府を非自由主義的かつ反民主主義的だとして非難する。しかし、竹井氏は私的政府の制限約款を用いた居住者に対する数々の「制限」は、むしろ集団の利益を維持するために不可欠の存在だと考え、肯定的に評価している。そもそもCIDの居住者はそうした制限をわかって移住してくるのであり、それを抑圧だととらえるのは完全な誤りだという。日本では「民主主義」を論じると往々にしウェットな書き方になりがちなので、竹井氏のクールな記述は好感が持てた。

第2に、マッケンジーや日本のゲーテッド・コミュニティを批判する論者が専ら米国型のPUD(Planned Unit Development:郊外型の戸建住宅団地)にだけ焦点を絞っているのにたいし、竹井氏が日本でも分譲マンションには管理組合という「私的政府」が備わっており、現在の分譲マンションのセキュリティはゲーテッド・コミュニティに匹敵するものだと主張している点。たしかに近年の分譲マンションの「要塞化」には目を見張るものがある。

第3として、あとがきで、ゲーテッド・コミュニティのような「要塞都市」は現代の特殊アメリカ的なものではなく、昔から世界中で見られる普遍的事象だと指摘している点。極論すれば日本にだけ、ゲーテッド・コミュニティが存在しておらず,竹井氏はこの理由を日本が四海を大海に囲まれた国家単位のゲーテッド・コミュニティだったからではないかと推測している。ただ、日本には「要塞都市」がなかったという話はいささか疑問が残る。中世日本には奈良県今井町のような明らかな「環濠城塞都市」があったためだ(市場は正義!「今井町:ゲーテッドコミュニティあるいは無政府資本主義の歴史的事例」)。 

最後に政治哲学的な観点からいくつかコメントをしてみたい。例えば竹井氏のデモクラシーの定義だ。かれは集団における望ましい民主政治を以下のように定義する。 

本来、社会の構成員の総意によって権力を付与された政府は各個人の権利を保護すると同時に「制限」を課し、その「制限」によって個人としてはなしえない利益確保を成就させる役割を担う。そして、各個人の権利に対する「制限」に正統性を与えるのは構成員の同意なのである。 

竹井氏は、集合住宅の統治にたいする住民参加にこのようなデモクラシーの可能性を感じ、それを国政レベルまで広げていくことが重要だとする。だが、集合住宅の統治は果たして「デモクラシー」なのだろうか。デモクラシー、民主主義の定義もいろいろあるだろうが、制度の根幹にあるのはやはり「1人1票」の原則だろう。つまり、金持ちだろうが貧乏人だろうがその組織を構成するメンバーは平等の権利を持っているわけだ。

いっぽう集合住宅、とくに竹井氏が期待する分譲マンションの管理組合の運営は上記の定義とはかなり違う。区分所有法では、規約の改定や集会での意思決定の際に、区分所有者数とともに議決権も重視されるからだ。議決権は、1人1票ではなく、原則として専有部分の床面積に応じて決められる。言うなれば、たくさん金を払った人間により多くの権利が与えられることになる。これはデモクラシーの平等原則に相反するのではないだろうか。

また、竹井氏はゲーテッド・コミュニティを「成功者の離脱」だとして批判するロバート・ライシュの議論にたいし、ゲーテッド・コミュニティの住人も(再分配の主要な要素である)連邦税を払っているという反論を行っている。この反論は以前ぼくが竹井氏の講演会の出席したときも聞くことができた。しかし、この論理はいささか甘いように感じられる。むしろ、再分配を積極的に拒絶するのが正当だったように思う。このあたりがコミュニタリアンを自任する竹井氏とぼくの最も大きな違いと言えるのかもしれない。